77人、わが座右の銘(諸君!)
通院に行った帰りに、ふらり祐天寺駅ガード下の書店に寄ったところ、諸君!の最新号が目に留まり、くだんの特集が面白そうだったので久々に買ってじっくり読んでみた。
特集の冒頭文句がすばらしい。
一寸先が闇のこんな時代だからこそ、あらまほしきは先達の知恵。
仏陀、キリスト、孔子から、魯山人、アントニオ猪木まで、珠玉の言葉の数々が
今新たな輝きを放って心に沁みる。
年末に相応しいじゃないですか。
かつて一介の学生時代、正論、諸君、文春は欠かさず買っていた日々を懐かしみながら読み進めると、強面の面子がそれぞれ興味深い座右の銘を語っており、おじいちゃんちに来た安堵感と刺激がある。
その中から、いくつか紹介しよう。
まず全体を通して、比較的多く聞かれたのが、「座右の銘なんかねーよ。」という書き出しだ。
いちいち座右の銘なんかねえけど、聞かれたら逃げるのもアレだし、一応コレ。という形で繰り出されるニーチェ、ゲーテ、ドストエフスキーの三連コンボ、みたいな。
特に養老先生とか養老先生とか養老先生とか。
思いのほか、かなり多かった印象です。先生方にとっては、なにやら気恥ずかしいのでしょうか。
ほかに目立った点としては、「足るを知る」ということです。
水野俊平先生をはじめとして結構多くありました。
これは非常に興味深いと思いました。
吾唯足知
(足るということを知る者は自ら心の平安を得る、足ることを知らぬ者は富んでいても貧しい)
ウチの父親と同じ銘を掲げたのが、スポーツジャーナリストの二宮清純さん。
二宮さんとは、一度だけ盃を交わしたことがあるので、それも含めて嬉しいです。
これは小学生の頃、ミミタコで言われていましたねえ。
これをセレクトした二宮さんのエピソードも大変感心しましたので、是非本誌にて。
為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり
心の親父、石原慎太郎パパのセレクトも、さすがの一言。
このマッチョイズムは見習いたいところ。
私の心中で待ち望んでいたものを ことごとくこの世で体現した上で、
満足して−−−−或いは
全く絶望しきって死にたいものだ
アンドレ・ジイド『地の糧』
慎太郎曰く「青春に出会ったあの言葉の啓示のまま生きてき高齢に達した今、私にとっての最もな関心は、やがてこの自分が、はたして満足してか、それとも絶望しきって死んでいくのだろうかということだ。」とのこと。
親父のそういうところ、マジで好きっす!
而今(じこん)
「過去を振り返らず未来を夢みず、ただひたすら『今』に生きよ」という意味だそうだ。
かつて佐々氏は「生は偶然、死は必然」という諦観を持っていたそうだが、而今がそれに勝った観念と言える。
78歳を迎えた佐々氏のこの境地を、ぼくのような若輩が分かるなんて言うことは大変おこがましいが、理解はできる。
あとは、ノンフィクション作家の佐野眞一氏。
それは現代の光を過去にあて、
過去の光で現代を見ることだ
E・H・カー『歴史とは何か』
僕もこれは、一時期すごく好きな言葉でした。
社会人1年目のときは、このE・H・カーの著作をデスクの引き出しにお守り代わりに入れてたぐらい。
この見方が大前提でできるヒトと、そうでないヒトだと、全然話の品質がちがうという罠。
渡邉恒雄a.k.aナベツネもさすがインテリに相応しいセレクト。
常に新たにして増し来る感嘆と崇敬とを以つて心を充たすものが二つある。
それはわが上なる星の輝く空と
わが内なる道徳律とである
ナベツネのカントヲタっぷりは有名ですが、実践理性批判をもってきたところに、ナベツネを一概に老害扱いできない部分があるかもしれません。
「旧制高校時代から今日まで、カントの人格主義哲学は、私にとっていかなる宗教以上もの強く崇高「教典」となっている」とのこと。
また、陸軍二等兵として徴兵された時、岩波文庫の「実践理性批判」隠し持つことで、暴力や死の恐怖を超越した、と確信するに至ったエピソードは是非本誌で。
さいごに、心の先輩みうらじゅん氏。
I DON'T BELIEVE ME!
自作
私は自分を信じない、そうです。
さすが、先輩。深そうで浅い感じが、たぶん深い。
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